作家、湯川豊「イワナの夏」論評 釣り師の本性、本音を静かに語る名書

釣りという遊びは、およそ今日まで過去の偉大な釣り名人や有名な作家たちをも苦しませてきた、人間なら誰もが持つ悪魔の習性と言えるでしょう・・・。

前回、釣り書物の聖書と呼ばれる「釣魚大全」の著者アイザック・ウォルトンのお話をしました。

前回記事はこちら

作家アイザック・ウォルトン「釣魚大全」釣り界の聖書に残された釣り人の性

 

最初に流し読みしただけでは何も分からなかった貴重な釣りの書物達。

脳科学の知見無くしては耳を傾けることすら叶わなかった過去の釣り師たちの心の叫びが、今ここに集約されていきます。

私は彼らの心の葛藤にとても深く交わることができ、時空を超えて彼らと同じ思いを味わうことで、釣りという原始的遊びの終着点を私なりに探しに行くことができました。

 

釣りと依存、釣りと快楽、釣りと本能・・・

日本の釣り作家たちはウォルトン卿と同じような苦しみに陥ったのか?

そんな視点でこれからいくつかの小説を解説していきたいと思います。
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湯川豊「イワナの夏」論評 釣り人共通の心の闇

湯川豊氏は日本の評論家、エッセイストです。

元文芸春秋社の名編集者で、植村直巳を発掘したことでもよく知られています。

本人は渓流釣りをこよなく愛するアングラーでしたが、彼の著書である「イワナの夏」には釣り人が持つ共通の闇、人に言えない何かドロドロしたものを表現した文があります。

例えば次の一節です。

p76 僕にとっては、いつもではないにしても、時として川が犯行現場のようなおもむきを持つことがある。

魚の生命を奪うからとかそういうのではなく、釣りという行為そのものがなぜか犯罪を行うのに似てうしろめたいと感じてしまうことがあるのだ。

その場合、犯行そのものについては語ってみたいけれども、犯行現場についてはペラペラと語りたくはないという気持になる。

あるいは、釣り場を匿すという免責があって、はじめて事の一部始終を申し述べることができるというべきか。

釣りはアウトドア・スポーツの一種のようでもあるけれども、釣り師は賭博師と同様にいつもおてんと様の下で胸を張って歩けるとは限らないのだ。

~釣りはひそかに行われる犯罪に似て、僕はその現場を白日の下にさらす気にはなれないのである。

 

どうでしょうか。

湯川豊氏はこの一文で、釣り人の持つダークサイドな面をとても見事な表現で言い当てているのです。

 

釣りは犯罪・・・。

アングラーたちはそれを薄々なんとなく感じていながらも、賭博師と同様、己の脳内に分泌される覚せい剤のような快楽物質を求め、答えを出せないままいそいそと犯行現場へ向かう悲しさを表しているようです。

 

 

続いて次の一節です。

p119 春が闌けていく。私の胸がモヤモヤとしめつけられる。桜の花を惜しむにあらず、また恋もなく過ぎていく春を惜しむにあらず。

私の頭のなかには、桜の花を見るとヤマメを思うという連想の回路ができあがっているらしい。~ヤマメ恋しやと胸がしめつけられるのだ。

これも釣り人の性をよく表していますね。

桜の花の情景=ヤマメ釣りを楽しんだ情景 と脳内でリンクして、まだ釣りに行っていないというのに脳内快楽物質「ドーパミン」が放出され、
さらに「報酬」を欲しがる大脳が禁断症状を起こし、胸が締め付けられるような感覚を覚えるのです。

 

次の一節には前回の記事で紹介したアイザック・ウォルトン卿のことについて釣り人のどうしようもない習性を重ねて、「釣魚大全」の1文に対し湯川豊氏なりの論評が加えられています。

p120 いつも心のどこかにモヤモヤと焦りに似たものがあり、あげくには雨に打たれた花びらのような衰弱がわが心身を領してしまう。

アイザック・ウォルトンは「釣魚大全」の末尾に「穏やかに生きることを学べ」と書きつけた。

すでに穏やかに生きている人はそれを学ぶ必要などないはずだから、釣り師とは穏やかに生きることを心して学ばなければならない類の人間なのだろう。

しかし私の個人的体験からすれば、釣りをやってるかぎり穏やかになんか生きられるものか。釣り師は釣りをしているときだけ、もっと厳密にいえばヤマメやイワナをかけた後の数刻だけしか穏やかでいられない。

ひらひらと桜が散るのを見ていると、私の頭の闇のなかで、幻のヤマメがこっちの都合におかまいなく無責任に泳ぎだしてしまう。

湯川豊氏も、釣り人特有の習性「脳が報酬を受け取って興奮・快楽を得ている瞬間」のみしか穏やかでいられないというのです。

これはまさしく人間がギャンブルなどの依存症に堕ちていく代表的な動機といえるでしょう

 

そして最後に次の一節をご紹介します。

p244 ヤマメ釣りでは、釣れても釣れなくても、心が昂ぶることがしばしばある。

釣れるからといってもけっして安らかな気持ちになれやしないのだ。

里山に棲むヤマメの、あのすばやさ。
あるいは、あのスレッカラシぶり。

それをうまく仕留めて、シテヤッタリという気分になるときの充足感は、安らかさというのとはやはりどこか違っている。

湯川豊氏は、不確実性による興奮、この先どうなるか予測できないスリルに反応して(ドーパミンを出して)しまう脳の働きをこう表現しています。

報酬系による一時的な快楽は長く続かない上に、繰り返すといずれ慣れてしまいますし、どこまで求めても決して安息の地などありません。

あるのはより酷い中毒症状のみです。

彼自身「これは喜びというよりも人間の弱さ、動物的な獣の習性で、どこか危険なもの」ということを肌を感じ取って、魚釣りという魅力に取り憑かれながらも実はその裏で中毒的なこの遊びを忌み嫌っていた側面があるのではないでしょうか。

 

湯川豊氏「イワナの夏」には、これだけ多くの啓蒙が隠されていたというのに私は最初の一読では彼の心の痛みを全く理解することができなかったのです。

しかしよく読み返してみると現代の我々釣り師に対し、このような大変貴重な先輩の忠告として沢山の事を記録し、書物として残してくれています。

 

私自身釣り師としての深いレベルの悩み、葛藤の先に、真の釣り師としての器量、人格が待っていると信じて更なる文学書や小説を読み進めました。

次回また他の小説を論評してみたいと思います。

つづく

 

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